なんでもないかも

なんでもないようなことが
幸せだったとおもう・・・♬
そんな歌詞の歌一曲で御殿が
建ち其の後を裕福に生きれる
幸運を招き寄せた人もいる。

そんな幾つかの成功例を耳に
すると、嗚呼~我が身にもと
願ったりするけれど、
叶うわけもなく、身体のアチ
コチに痛みを感じながら、
毎日を過ごしている。
日常の出来事を書き綴るよう
なところに、
専門的なことを書いても、
興味や関心が無い限り見流し
聞き流し、ハイハイと流れて
ゆく。


こんな一寸したイイ話があった
そういう類が一般ブログの生命
なんだろうな。
多くは感動に自身を奮い立たせ
ることが好きだ。
身体の不自由を抱えながら交響
曲の感動作と騒がれたら、
飛びついて、なんと素晴らしい
と持ち上げて、後に別人の創作
だと知ったら、掌を返すように
「ダマサレタ!!」と投げ出して
しまう。
素晴らしいと思っていた感動作
のソフトは、ゴミと化す。
録音された音楽は何一つ変わらず
そのままあるのにね、
感動の流れは軽薄極まりない。


一杯のかけ蕎麦も感動作だった。
👉
一杯のかけそば - Wikipedia


後に作者が詐欺事件とか三面の
記事欄を騒がせ、
なんだ、そんな奴なのかと感動
の話しに涙を流し胸を震わせた
ことも忘れて、ケロッと乾かす。


シンフォニーも良かったじゃ無いか、
かけ蕎麦の話しも広い世間には事実
としてあるかもしれないじゃないか、
なぜ、ダマサレタと自身を被害者の
ようにして、ケロッと白っと忘れる
ことが出来るのか・・・?


ダマすよりダマされる人が良いとか
自身を粉飾しながら、一旦勘違いに
気付けば鬼の首を絞めつける勢いで
非難に走るのもいるかもしれない。


その時々の感動に気安く乗らずに

身を任せずに安易に走らず、
落着きながら接する、
そういう感覚が、大事よね。
👉三杯のかけそば|北海道新聞
 連載記事『朝の食卓』



沢田研二 時の過ぎゆくままに (歌詞入り)

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